元旦那さんから
『金曜日休み取れる?』と水曜日に言われ
段取りをして急遽休みを取りました。
毎年この日(1.17)は5:46に必ず黙祷を捧げ、思い出す日ですが
今年は30年という大きな節目でもあり
日帰りで神戸に帰ろうということになりました。
朝5時に家を出ました。
全壊した祖母の家の近くに車を停め、歩いて新長田駅へ。
地震の後に復興のシンボルとして建立された鉄人28号の像。
神戸マラソンを3度走りましたが、その時も横目に見ながら走ったっけ。
全壊した祖母の家の近くの公園にはその時の火災で残った車止めと街灯がそのまま残されていました。
あの日の朝、元旦那さんは先に起きていて
地震の揺れの時、私に覆い被さってくれたのでした。
結婚してまだ一年足らずの事でした。
当時は11階建てのURの8階に住んでいたのですが
あまりの揺れに建物が折れるのではないかと思う大きな揺れ。
『死ぬ』と感じる恐怖を味わったのはあの時が初めてでした。
揺れがおさまってもまだ暗い時間で被害状況もわからない。
ラジオを付けたけどまだ『大きな被害はない模様』と伝えていたのでした。
時間が経つにつれ甚大な被害が出ていることがわかってくるのですが
元旦那さんの職場(大阪)にも連絡をしたら
『仕事遅れてもいいから来い』という感じでした。
でも線路はぐにゃぐにゃ、道路も大渋滞で
結局、元旦那さんも私も出勤できる状態ではありませんでした。
そうして電気以外は全て止まってしまい
3日後には大阪の親友Fちゃんの家へ疎開することになりました。
元旦那さんは職場が大阪だったのでそこから出勤出来ましたが、
私は約2ヶ月仕事には行けず。
後で聞いた話ですが
地震の後に初めてFちゃんに会った時の私は
『覇気がなくて、生気が抜けたような力のない姿だった』そうです。
Fちゃんの勤めている会社に鍵を借りに行き
Fちゃんの一人暮らしのアパートにしばらく2人で住まわせてもらったのでした。
今もFちゃん(東京在住)には足を向けて寝られません。
地震の当時の話は始めると終わりがないのと
聞かされている人がどんな顔をしていいか困るだろうなと感じるので
基本的にはあまり話さないのですがブログなので遠慮なく書いておきます。
ごめんなさい。
自分たちの家に戻ってからも、通勤には苦労しました。
JR、阪急、阪神の繋がった線路をツギハギで乗り継いで
片道に3時間ほどかかったりしていました。
なので職場にいる時間もとても短く3時にはまた帰らせてもらうという状況が続きました。
不幸中の幸いは親族の誰もが亡くならなかったことです。
その当時住んでいた家や勤務先、お墓参り、
祖母の家のあった場所(今は更地になり駐車場として貸しています)と
東遊園地を電車で回りました。
生きていることは当たり前じゃないんだと
つくづく思い知らされた出来事でした。
元旦那さんと共有している大きな出来事なので
こうして一緒に行けて良かった。
帰るたびにもう自分が生まれ育った当時のままではないのを痛感します。
ただ土地の区画は変わらないままなので
この道を曲がるとあの通りに出られることなどは昔のままです。
そして懐かしいまま残った場所があると、とてもホッとします。
30年かけて頑張って立ち直ってきた町。
大好きな故郷はこれからも大切にしたいです。